泥牛庵について
春は桜
梅雨はあじさい
夏は蓮華
秋は白彼岸花の花の寺
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鎌倉時代も末期の頃、泥牛庵という一風変わった名のお寺が創建されました。
開基は、鎌倉幕府得宗家、第十四代執権北條高時、開山は鎌倉五山二位円覚寺第十一世、南山士雲禅師です。その名の由来から、創建は千三百二十五年乙(きのと)丑(うし)の春節(旧暦正月)の頃と伝わります。
正和五年(一三一六)七月高時公は幼少十三才で執権となりました。
その十年後、嘉暦元年三月(一三二六)高時公は金沢貞顕に執権を譲り、出家をします。しかしその貞顕も僅か一ヶ月で執権職を辞してしまいます。高時公出家の前年が乙丑、学問に精通する貞顕公の計らいで、金沢領地に堂宇を造営し、自身の護持仏、観世音菩薩像を本尊に納め、翌年出家入道を果たしたと伝承されています。 -
高時公の法名は、出家をしたとされる寺(所在は不明)の日輪寺殿、泥牛庵の山号が吼月山、太陽と月、陰陽の対寺として誕生させたのかもしれません。
当時の農民の風習で春節には、泥で作った牛をお供えし、ムチ打ちをしてその年の豊作を祈願していたという記録があります。牛に元気に働いてもらえることが、何より耕作の助けとなっていたからでした。
創建が田を耕し始める時期に当たることは勿論、当時は入り江が細かく入り組んでいた瀬戸、塩場であった六浦の地は潮が引くと泥沼のようになっていた景色、牛に所縁のある菅原道真公の座像が当庵に存在することから、丑年という仏縁には縁起の良い年、そして高時公と道真公の境遇が、禅語にしばしば登場する「泥牛」に重なったのでしょう。
士雲禅師は、煩悩を泥に、仏を牛に喩えます。牛が泥にまみれ目的を成すために一生懸命に働く姿はまさに私たちの人生の歩みそのものです。華葉が泥中にあって泥に染まらぬように、煩悩にとらわれない境地で生活する人の歩んだ後には、悟りの象徴、蓮華の花が咲くといわれています。高時公の将来を憂う禅師の優しさが伺えます。 -
南山士雲禅師は、京都に赴かれ、南禅寺の住持を務めた後、自身の出身、藤原氏の菩提寺東福寺に住持し遷化されました。塔所は、東福寺山内塔頭の荘厳院と、円覚寺山内塔頭伝宗庵にあり、その遺骨は折半され両寺に埋葬されています。当庵には禅師の歯が一本分骨され、大切にお祀りされています。
因みに丑年丑の日丑の刻生まれの道真公の生誕は八百四十五年乙丑年ですが、それから還暦を繰り返すこと八回、その四百八十年後の乙丑年に当庵が創建されたのは偶然ではないでしょう。
享保七年(一七二二)皆川藩米倉家が柳沢吉保の六男を養子に迎え入れたことで六浦藩となり八景谷戸に陣屋を構えるにあたり当庵は現在の地へ移転となりました。
子育て六浦地蔵尊
子育て六浦地蔵尊
元は泥牛庵末寺、六浦地蔵堂の本尊で南北朝時代、現在の栃木県小山城主、小山義政の嫡男若犬丸は、吉野後醍醐天皇の南朝方に味方した為、鎌倉公方足利氏満に攻められ、二人の子供宮犬丸、久犬丸は捕えられ、鎌倉に護送途中六浦の海に沈められ処刑された。と伝えられています。
供養の為に建てられた地蔵堂のあった六浦の丘の上には、石塔二基が今も六浦(むつら)湊を見つめるように、そしてその下には南朝方武士の宝篋印塔群が若君を見守るように今もひっそりと佇んでいます。
明治政府の廃仏毀釈令により、三間四方の地蔵堂は廃寺となりましたが、霊仏子育て地蔵として信仰されていたお地蔵様は、本寺の当庵に移されました。
胎内にはあたかも二人の御霊を象徴するかのように大小二体の地蔵の石仏が納められています。小山市史にはこの逸話が伝わり、その記述がみられます。
仏像・寺宝
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黄檗鉄眼版
「大般若経六百巻」
(享保〜文化) -
十王地獄絵図
(宝暦)
泥牛庵香炉
宝暦九年
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